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双十協定, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=1... / CC BY SA 3.0 #中華人民共和国の歴史 #中華民国の政治 #国共内戦 #1945年の法 #重慶の歴史 #1945年の中国 #蔣介石 #1945年10月 「双十協定」 双十協定(そうじゅうきょうてい)とは、日中戦争の戦闘終結後、中国国民党と中国共産党とが締結した協定。 両党が分裂している局面を終結させ、戦後中国に統一した政権を樹立させることを目的に発表した会談の要旨で、民国34年(1945年)10月10日に調印されたことから双十協定と呼ばれる。 正式名称は政府と中共代表の会談紀要(政府與中共代表會談紀要)。 日中戦争終戦後、中国の平和的発展を脅かす外的要因が減少しつつあったことに伴い、抗日という同一目標に向け共同作戦(第二次国共合作)を採用したことで戦争中には表面化していなかった、中国国民党と中国共産党との間の政治矛盾が浮上してきた。 日中戦争によって、多大なる犠牲者を出した中華民国であったが、結局は西安事件の際にヨシフ・スターリンや中国共産党主席毛沢東の意図した通りに日本軍との戦いで損耗し切った状態であり、毛沢東主席率いる中共は日本軍と国民党軍の相打ちを実現させた事で戦力の温存を図っていた。 東北、華北、中原の各地区では、国共両党の軍隊が都市統治権と戦略物資の接収をめぐって争いが展開され、ソ連は東北地区にあった元日本軍の兵器と戦略物資を獲得しており、これが林彪が率いる東北共軍に流れていた。 一方、日本敗戦とともにアメリカは、抗日戦末期に弱体化が著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこし、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍にかわってアメリカ軍みずから華北の炭坑、鉄道などを接収した。 こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北支配の足場をいちはやく固めることにあった。 このように国民政府はアメリカから軍事援助を受け、アメリカ海空軍によって国民革命軍が華北、東北地方に展開され、両党は一部の地区で散発的な衝突を繰り返していた。 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、内戦と戦争が続いた中国をなんらかの形で大国として安定化させ、それによって東アジアが勢力均衡になることを期待していた。 本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。 中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。 「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた。」。 民国34年(1945年)8月、蔣介石主席は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。 この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である蔣介石、王世杰、張治中、邵力子と会談を行った。 重慶で会談する蔣介石(左)と毛沢東(右) 重慶会談で祝杯をあげる蔣介石(右)と毛沢東(左) 会談開催前、両党は協議期間中の停戦を発表していたが、実際には協議における優位性をより確保するために、共産党の軍隊は戦略的要地の奪い合いを繰り返し、協議期間中も戦火がやむことは無かった。...