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No.605_城跡巡り 羽津城址(三重県四日市市) 2 месяца назад


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No.605_城跡巡り 羽津城址(三重県四日市市)

2024年5月26日(日) 羽津城(はずじょう) 所 在:三重県四日市市羽津山町22 34.9880502, 136.6318784 駐車場:なし 別 名:なし ⚫︎このあたりは字名を城山という。羽津城があったことにより命名されたのであろう。宝永8年(1711)4月の「羽津村指出帳」によると、「城址西東38間 北南34間 城主赤堀右京」とある。築城したのは藤原盛宗。彼は、藤原秀郷の子孫で、応永年間(1394-1428)に、上野国赤堀庄から当地に移って赤堀城を築いた藤原景信の長男だった。景信の次男は赤堀城を継ぎ、三男忠秀は浜田に城を構え、盛宗とともに赤堀三家といわれて、北勢地方で勢力を誇った。  羽津城は、盛宗の後、宗久・宗喜・胸慶・宗昌と続いたが、元亀3年(1572)、六代近宗の時に織田信長に滅ぼされた。羽津山町の正法寺には、六代の過去帳がある。 現在、城跡と称しているところは、昔の本丸のあとで、土塁が残っている。(現地案内板より) ⚫︎羽津城は四日市市の北部を流れる海蔵川北岸の台地上に位置する。城跡は中央を近鉄名古屋線によって分断されており、城の東部分は保育園となり、西部分には土塁と空堀の一部が残っている。城の東方には城下町の形成もみられたようで、その城下町を東海道が通っている。 (日本城郭大系10 83ページ) ⚫︎近鉄阿倉川駅の北二百メートル余にあり、城山のちょうど中央を近鉄が走っている。城址は23アール近く、高さ約7メートルの丘陵地で、城の西から北にかけて外堀の跡があり、南の松林の間を三重川が流れている。昔は一面の耕地のなかに民家が並んで町を形づくり、東海道がここを南北に貫いていた。  城山に立てば、遠く伊勢湾を隔てて尾張三河の山々を望み、近くの海を航行する船も見張れ、北は桑名から南は神戸まで一目で見渡せるまことに要害の地である。  城は、応永年間(1394-1427)、赤堀右衛門大夫盛宗が築城、羽津、八幡、吉沢等六ヵ村を領し、国司北畠家に属していた。盛宗は、赤堀城主赤堀肥前守景信の長子で、藤原秀郷の末葉、弟秀宗は赤堀城主、末弟忠宗は浜田城主で、これを赤堀三家と称えて、北伊勢の豪族であった。  元亀2年(1571)2月、隣接した茂福城の朝倉盈豊が信長に背いて近江の六角義賢の命に従う、という噂が流れたので、新たに北勢五郡の領主となった滝川一益は、ひそかに使者を遣わして盈豊を長島城に誘い入れて暗殺し、ついで大軍をもって茂福城を攻め落とし、その部下を目代にして長島に帰った。その翌年の6月、城代は羽津近宗を隣城のよしみで水魚の絞りを結びたいと欺いて、彼を茂福城へ招き、その間に羽津城を包囲してこれを開城させた。これを聞いて信長は喜び、当分羽津城番として滝川新右衛門をここに置いた。  のち天正12年(1584)の小牧長久手役のとき、秀吉はこの城に陣をおいたことがある。 (日本城郭全集8 103ページより) ⚫︎15世紀後半、この地を治める田原盛宗によって築かれたのが羽津城です。田原氏は、もともと上野国赤堀庄に住んでいましたが応永年間(1394~1428)に景信が伊勢に移り、四日市の赤堀に城を構えたとされます。 景信は、長男の盛宗を羽津に、次男の秀宗を赤堀に、そして三男の忠秀を浜田に配しました。世にいう赤堀三家です。  羽津城は、盛宗から近宗まで六代の居城となりましたが、近宗が謀殺されたのを機に合戦に及びついに開城、その後、羽柴秀吉と織田信雄の合戦後の和睦により廃城となりました。  現在、城山公園に石碑が立ち、本丸跡の保塁と内堀の一部が残り、かつての城館の面影をわずかに残しています。 (四日市市ホームページより) https://www.city.yokkaichi.lg.jp/www/... ⚫︎応永年間(1394-1428)、上野国赤堀庄から当地に移って赤堀城を築いた赤堀(藤原)景信の長男である盛宗が築城 羽津城は、盛宗から近宗まで六代の居城でしたが、滝川一益より近宗が謀殺され、羽津城は開城しています。 現在、公園には石碑と土塁跡が残っています。

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